清里の開拓の歴史
清里の歴史は深い
小海線、清里駅から萌木の村に向かい「ともにこの森」まで歩くと一角に静かな共同墓地が見えてきます。墓石は、東の方向をみな向いています。その先には、「大東京市百年の大計」の名の元、小河内ダム(奥多摩湖)建設で水の底に沈んだ小河内、丹波山、小菅の三つの村がありました。
昭和13年に着工した貯水池計画ですが、完成したのは昭和32年に完成しています。そして、ダム湖に沈んだ旧小河内村と山梨県丹波山村、小菅村の945世帯6000人が移転せざるを得なくなりました。同じ村内の水没しない場所に引っ越したのは204世帯で他の741世帯は東京都の昭島市、青梅市、奥多摩町(旧小河内村以外)、立川市、八王子市など三多摩地区で暮らすようになりました。
そして丹波山村の二十八戸は、新天地を求めて八ヶ岳山麓念場ヶ原開拓地へ入植をきめました。
山梨県開墾事業は農村不況に対応するために昭和8年に始められていました。そこに入植者の話が入ってきました。
しかし、念場ケ原開拓は、標高1,200mあり、清里の本山の浅川集落からは山や谷を超えた遠隔にありました。しかも、厳冬期にはマイナス20度になり、安池も「高冷地での開拓は危険を伴い県営事業を放置するわけにも行かず人知れず憂鬱の感を深めていた」と後年後述しています。
この3月に八ヶ岳コモンズに設置されている「八ヶ岳高根清里資料館」を訪問しました。3月は雨が多く来る日も来る日も雨と雪の日々が続きました。そんな中、資料館があることは知っていたのですが行く機会を失っていました。そこには、入植時代の苦悩とその歴史を知ることができる史料が多く残っていました。この一枚も大事な写真です。彼の努力無しでこの歴史を語ることはできません。
彼の名は、安池興男、京都府から山梨県耕地課に転勤してきた青年農林技師です。この年の晩秋にポール・ラッシュも清里にキャンプ地建設を決定してます。
清里は、二人の「開拓の父」と同じ年に縁を持ったことになります。
今回の訪問で、ぜひ、訪問させていただきたかった場所に、開拓者の心の支えになった御崎大神社があります。言うまでもなく、安池氏は廃止状態にあった伊勢大神宮を縁に持つこの御崎大神社を発見し地元の関係者の承諾を得て遷座しました。昭和十四年十一月一日、青柳金重、岡部清晴両氏を中心に運搬、石碑を開拓地中央部のこの岡に奉遷安置したのがこの神社の起こりです。
もう一箇所は、開拓40周年を記念して建てられた八ヶ岳興民館(やつがたけこうみんかん)です。開拓者を献身的に支えた安池興男氏の名を取って興民館と名付けられました。右下の写真は「開拓60周年」の時の写真です。入植して60年の間には学校も建てられました。
(資料作成中)8・16日
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